ビートルズが後世に与えた影響

評価と影響

 ビートルマニアに象徴される様に、デビュー当初はアイドルグループとして受け止められる動向が強かったのですが、その時期においても音楽性の評価はなされていました。(特に音楽的評価は後世になってから深く掘り下げられるようになったわけですが、)先輩格の同業者では、ジェリー・リー・ルイスが才能を認める発言をしていて、ザ・ビーチ・ボーイズのカール・ウィルソンは、「抱きしめたい」のファンだったと発言しています。また、ビートルズの勢力拡大に対して、ブライアン・ウィルソンがメンバーとミーティングを開いて、市場維持のために自分達の音楽性を変化させる事を提案しています。なお、後年リリースした『ペット・サウンズ』は、逆にビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に影響を与える結果となりました。後輩格の同業者の例では、トム・ペティやジャクソン・ブラウンが称賛しています。また、両者ともビートルズがポピュラー音楽を変容させた点を挙げていて、U2のボノもビートルズの前衛性を評価しています。さらに、オジー・オズボーン、グラディス・ナイト、ブルース・スプリングスティーン等、様々なジャンルのミュージシャンもビートルズのファンだった事を打ち明けています。1967年にリリースされた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、音楽的な評価がこれまでより上に高く、それまでビートルズを批判していた者或いは興味のなかったシリアス音楽の側にいる者たちにも好評で、ポピュラー音楽そのものを変革した作品と評されました。なお、リンゴの発言によれば、1966年~67年頃のバンドは、おおかた全てビートルズの影響を受けていて、それらのプロデューサーは多かれ少なかれ自分の担当するバンドの音をビートルズに似せようとしていました。

オリジナル曲を優先する動向

 ビートルズのレパートリーは、オリジナル曲とロック/ポップスの有名曲のカバーの両方で成り立っていますが、バンド活躍期間中に英国でリリースされた22枚のシングルは全てメンバー自身によるオリジナル曲でした。今では考えられないことですが、これは当時の英国音楽産業界の常識からは逸脱していました。そのころはプロデューサーと版権業者と音楽作家の連携によって業界が成り立っていて、作詞作曲はアーティストが行わないことになっていました。ジョージ・マーティンも、そういった業界のしきたりをビートルズに教えています。ビートルズ以前に殆どの全英チャート1位を獲得したバンド「クリフ・リチャード&シャドウズ」等も、その殆どが外部の音楽作家の作品になっており、ディッキー・プライド(Dickie Pride)やビリー・フューリーといったような当時の人気歌手も同様でした。ビートルズも、当初はジョージ・マーティンの発案で外部の作家による「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」をデビュー・シングルとして出す予定だったのですが、メンバーは自分達で作った曲によるシングルのリリースを頑として主張し、結果として「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビュー。以降は解散までそれが続いていました。この、自作曲を優先するという動向は、ビートルズより後の英国音楽産業界に次第に浸透していき一般化していきました。その最もメジャーな例が、ビートルズより少し後にデビューしたローリング・ストーンズです。キース・リチャーズとミック・ジャガーがそれまでの既成曲を優先して演奏する方向を変え、オリジナル作品を作るようになったのは、ビートルズのメンバーから作曲について直接アドバイスを受けたからでした。

ブライアン・エプスタインの功績

 NEMSレコード店の責任者だったエプスタインは、1961年に地元のバンドであるビートルズの存在を知り、12月にマネージメント契約を締結しました。当時の英国の音楽界はロンドンが中心でしたので、地方都市を拠点としたローカル・バンドがレコードをリリースしたり、全国ツアーを催行するといったような活躍は、基本的に行われていませんでしたが、エプスタインはロンドンにあるレコード企業を廻ってビートルズを売り込み始めました。この売り込みに対して、デッカ・レコードがオーディションに応じています。これは、エプスタインが大手レコード店であるNEMSの責任者である事が反映されたものでした。1962年1月に行われたデッカのオーディションは不合格となり、「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」とまで言われる結果になりましたが、エプスタインは引き続きレコード企業を廻って売り込みを続け、その結果ジョージ・マーティンによるパーロフォンでのオーディションが行われる事となりました。レコードデビュー後は、エド・サリヴァン・ショー出演契約締結等で米国への進出を実現させ、ビートルズの世界進出に営業面で貢献しています。1966年8月のツアー中止より後もビートルズの活躍に関っていて、1968年に公開されたアニメーション映画「イエロー・サブマリン」の制作契約も、エプスタインが生前に手がけています。なお、同性愛者であった事はメンバーも承知していました。

英国と米国の音楽産業への影響

 ビートルズのデビューとその英国での活躍は、音楽産業そのものにも変化を与えています。ホリーズに在籍していたグラハム・ナッシュによると、ビートルズ以前の英国の芸能界はロンドンを中心としていて、地方とは分け隔てされている状態でした。それをリバプールのバンドであるビートルズが突破して市場の勢力が一変し、その結果、マンチェスターのバンドであるホリーズにもチャンスが巡ってきました。

 そのような変化は米国でも起こっています。1963年までは、英国のポップ・グループの曲が米国のビルボード・シングル・チャートで一位になった唯一の例はトルネイドースの「テルスター」で、それも2作目より後はヒットを持続させてはいません。しかし1964年初頭になって、キャピトルが初めてリリースしたビートルズのシングル「抱きしめたい」がビルボードで1位となった後は、4月4日に上位5曲をビートルズが占め、翌週の11日にはビートルズの曲14曲が100位以内にチャート入りするという事態が生じました。このビートルズの話題によって障壁が打ち破られ、この後、英国の殆どのバンドが米国に進出を始めたのでした。ローリング・ストーンズやアニマルズ、キンクス、デイヴ・クラーク・ファイヴ、ハーマンズ・ハーミッツ、ザ・フー、ピーター&ゴードン等が進出したこれらの一連の流れは、「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれています。この状況に対し、ファン層が異なっていたモータウンを除いて、当時の米国側の音楽関係者の殆どは対応策を迫られ、状況の分析と打開に向けて動き始めることになりました。

日本においてもビートルズの影響

 これまで「BAND」と言うものは、しっかりとした音楽基礎を勉強した教養のあるプロのミュージシャンに限られていましたが、ビートルズやベンチャーズの活躍の影響を受けて、日本中でギターやドラム、ベースギター、その他の楽器を持ち寄り、バンド・ブームが起こりました。矢沢永吉がロック・シンガーを目指すきっかけとなったのもザ・ビートルズですし、これまでも、これからも様々なアーティストに影響を与え続けております。日本では作家などにも大きな影響を与えていて、伊坂幸太郎などが、作中に頻繁にビートルズ関係のネタを出すことで知られています。

ビートルズとそれからの音楽について