オノ・ヨーコ

 オノ・ヨーコは日本生まれの米国の芸術家、音楽家です。ビートルズのジョン・レノンと結婚したことで知られており、また、レノンとの数々の共作においても知られています。1953年、20歳のとき、学習院大学から米国のサラ・ローレンス大学に入学し、音楽と詩を学び、1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活躍を開始し、1966年、活躍の拠点を英国、ロンドンに移しました。時を同じくして個展を開催し、その会場でジョン・レノンと出会い、結婚へと至りました。現在は、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞しました。

学歴について

自由学園幼児生活団(幼稚園)、学習院初等科、父の転勤に伴いニューヨークに転居、帰国後、啓明学園初等学校に編入、学習院女子中・高等科を経て、1952年に学習院大学哲学科に入学(中退)。1953年に家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外のスカースデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。在学中の1956年に作曲家の一柳慧と出会い、退学し結婚、前衛芸術の活躍を開始します。

芸術活躍について

 オノはフルクサス(1960年代に発展したダダイズムに触発された前衛芸術家らの自由な集団)に距離を置きながらも関わっていました。当時親しくしていたフルクサスの創立者、ジョージ・マチューナス(George Maciunas)はオノの作品を高く評価していて、熱心にプロモートしていました。マチューナスはオノと共にフルクサス・ムーブメントを広めようと考えていたが、オノはかならずしもフルクサスをムーブメントだとは認知しておらず、また自身はどこにも属さないアーティストでありたいと考えたためにあるある程度の距離を置いていました。

ジョン・ケージはオノのパフォーマンス・アートに多大な影響を及ぼしたひとりでした。オノとケージの関わりは、ニュー・スクールでのケージの有名な実験的作曲法の授業の生徒だった一柳慧との関係を通してのものでした。オノは、ケージと彼の生徒達の型にはまらない前衛的なネオ・ダダイズムの音楽に次第に傾倒していった。

1960年夏、オノは、自身も含めたニューヨークの前衛的芸術家達の作品を展示する場所を熱心に探し、マンハッタンのチャンバーズ・ストリート112番地に格安なロフトを見つけ、そこをスタジオ兼住居としたことにしました。それは、ケージがニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(New School For Social Research)での講師を辞めた直後のことでした。一方、作曲家のラ・モンテ・ヤングはそのロフトでコンサートを企画させてほしいとオノに頼み込み、オノは不本意ながら承諾したといいます。やがて二人は数々のイベントをこのロフトで主催することになりました。互いに自分こそが第一キュレーターだったと証言していますが、オノによると、次第に彼女はヤングの補佐的役割へと押しやられていった。このロフトでのイベントでは、キャンバスの小片を地面に置き、足跡をつけて完成する『踏まれるための絵画』に象徴されるオノの初期のコンセプチュアル・アート作品も展開されていました。その観賞者は、アート作品とは壁に飾られた手の届かないものである必須はなく、地面におかれ汚れた不揃いなキャンバスのかけらで、しかも踏みつけられる事によって完成としたこともあり得るのだという、オノが提示したジレンマに直面せざるを得ありませんでした。

当時のオノはコンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートを追求していて、そのパフォーマンス・アート作品のひとつに、1964年、草月会館(東京)で上演された『カット・ピース』("Cut Piece")がありました。この作品の説明には、一言「切れ」(Cut)という破壊的な動詞があるだけで、観客が舞台上に座っているオノの衣服を、オノが裸になるまで文字通り切るという作品でした。『カット・ピース』は、作品を介して彼女の内的苦痛を伝えるという、彼女の作品にはよく見られるもののひとつでした。大学で、オノはジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)の実存主義に触れ、自身の人間としての苦痛を鎮めるため、観客にアート作品を完成させるための協力を求めると同時に、自身のアイデンティティを確立させようともしていました。『カット・ピース』は、アイデンティティに対する問いかけに加え、社会的調和と愛の必要性も訴えています。また、苦痛や孤独という人としての普遍的な苦悩に言及すると同時に、ジェンダー問題や性差別にも触れています。この作品はロンドンをはじめ、様々な場所で上演され、観客が変わる度に違った反応を集めています。日本では観客は控えめで用心深く、ロンドンでは熱狂しすぎた観客が暴力的になり、オノが警備員に保護されるに至った事もありました。2003年には、パリで再演されています。

音楽活躍

オノはジョン・ケージやオーネット・コールマン等、著名な実験的ミュージシャンとコラボレーションをしています。1961年、レノンと出会う以前に、カーネギー・リサイタル・ホール(Carnegie Recital Hall)で初の大きい公演を行った。この公演は過激で実験的な音楽とパフォーマンスで構成されていました。オノはこのパフォーマンスの様子を次の様に語っています。「全部配置し終わると、私はステージをとても暗くしたの。網膜を緊張しなければならないほどにね。何故って、人生はそういうものだからよ。緊張しなければ人の心を読むことだってできないわ。それからステージを真暗らにしました。(中略)みんなは、ステージではぜんぜん音をたてずに静かに廻ってね。紐で絡がれた二人の男の人が、体の周りに空き缶と空き瓶をいっぱいぶら下げて、音をたてずにゆっくりとステージの端から端まで静かに移動しなければいけないときがあったの、私のやりたかった事は、ほとんど聴こえない音を作ることだったのよ。」1965年には、同じ会場で、2回目の公演を行い、『カット・ピース』を行った。

オノとレノンは殆どのアルバムでコラボレーションしています。1968年、レノンがまだビートルズに在籍していた頃の実験的で難解な前衛音楽となっている『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』が始まりでした。同年、二人はアルバム『ザ・ビートルズ』(ホワイト・アルバム、"The Beatles")に実験的な作品「レヴォリューション9」 ("Revolution 9")を提供しています。その他にも『ザ・ビートルズ』で、オノはバックコーラスとして、「バースディ("Birthday")」に参加し、ソロ・ボーカル(一行のみ)を「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」("The Continuing Story of Bungalow Bill")で披露しています。後に、二人はプラスティック・オノ・バンド名義で殆どのアルバムを発表することになります。また、二人は一緒にコンサートにも出演しています。1971年6月5日、レノンがフランク・ザッパ(Frank Zappa)のフィルモア・イーストでのコンサートに招かれた際、オノも参加しました。

オノ・ヨーコの噂

 非常に高齢でありながらも「ジョンレノンスーパーライブ」などのイベントを主催し、自分自身のミュージシャンとしての作品も発表しているオノ・ヨーコですが、そうした芸術活動だけでなく、ジョン・レノン関連の版権管理においても異常なほどのビジネス手腕を発揮して、ジョンが存命していたときをはるかに凌ぐ財産を築いているそうです。また、非常に恋多き女性としても有名で、「ジョン・レノンは最愛の人」と公言しながらも、アンディー・ウォーホルなどとの交友があったり、サムハバトイ氏とも実質的なパートナーとして20年以上も暮らしていたりなど、常人では理解できないような行動に話題が尽きない人物です。

ビートルズとそれからの音楽について